私は割と多読な方で年に百冊くらいは軽く読んでいます。しかしながら、読書を論じられる時に必ず出てくるショウペンハウエルの読書について、これは実はたったの20ページの文章なのですが、恥ずかしながら今まで読んだ事がなかったです。まさにショウペンハウエルが嘆くように流行の本ばかり読んで、真に古典と称するに値するものを読んでいなかったと状況です。
この本は読書についてと題しながら、内容は単純な読書讃歌ではないです。何も考えずに読む事の無駄さを、ズバリと指摘しています。まずは表紙に書いている一文を読んで下さい。
読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。
岩波書房の「読書について」は本編以外にも他に二編が載っているのですが、読書と思索というテーマを元に両者の根本的な違いをこんこんと説明してあります。その本質を一言で言い表しているのが、上の一文です。この文章を読んだとき、私はぐうの音も出ませんでした。定期的に反省するのですが、インプットを増やすことに満足してアウトプットが全然出ていない時が多々あります。ショウペンハウエルが指摘するような、浅薄な多読ということでしょう。
しかしながら、恐らく私は多読を止めないでしょう。その理由も上の一文の通りです。他人の考えをこんなに手軽に触れられるのも読書だからです。他人が一生懸命考えたことを、咀嚼出来れば効率この上ないのです。また私のように凡庸な人間が、天才の思索について垣間みれるのも読書なのです。
ちなみに、この本を読んでいて頭に浮かんで来たのが、次の孔子の論語の一編
学びて思わざれば則ち罔し,思いて学ばざれば則ち殆うし
ショウペンハウエルの一句と孔子の一句を、頭に刻み付けて今後も読書をしていこうと思います。
以下、読んでいて琴線に触れた所のピックアップです。(もっともっとありますが)
P9
読書は思索の代用品にすぎない。読書は他人に思索誘導の努めをゆだねる。
P11
読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。絶えず読書を続けて行けば、仮借することなく他人の思想が我々の頭脳に流れこんでくる。ところが少しの隙もないほど簡潔した体系といかなくても、常にまとまった思想を自分で生み出そうとする思索にとって、これほど有害なものはない。
P62
率直素朴な著者であるという批評の言葉あ、そのまま一つの賛辞となるのも、ちょうど、今上にのべたような事情のためである。
〜中略〜
一般に素朴なものは人をひきつけ、不自然なものはいつも人をしりぞける。さらにまた新の思想家はだれでも、思想をできるだけ純粋明瞭に、確実簡潔に表現しようと努めている。したがって単純さは常に真理の特徴であるばかりか、天才の特徴でもあった。